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河童のわび証文

沖内集落の鎮守赤津神社はその昔、不開(あかず)神社と呼ばれ、その地中深くには城主馬場八郎左工門がかっぱから預かったわぴ証文が埋められていると伝えられている。 天正の昔、八郎左工門は釈迦堂洲の濁流を愛馬大月に乗って渡り、女郎寺へやって来た。八郎左工門はここの住職と碁を楽しみ、帰途につくころにはすっかり日が沈んでいた。帰途についた八郎左工門がタ闇の中、大月にまたがり釈迦堂川の濁流を進んでいくと、川の中ほどで馬がぴたりと動かなくなった。どんなに叱責しようとも一歩も進まず、さては棒立ちになって騒ぐありさま。さすが剛勇を誇る八郎左工門も一時は途方にくれたが、鞭をふるってようやく岸にたどりついた。しかし、馬はなおも荒れ狂い、いよいよ不審に思い馬の後部を見れば、怪しげな動物が馬の尻尾につかまっていた。怒った八郎左工門が逃げる動物を引っ捕まえ「汝かっぱめ!」と大刀を抜いて手討ちにしようとしたところ、かっぱは悲しげな声で「私には妻子や大勢の子分がおり、お手討ちになるならば主を失い明日からは路頭に迷ってしまう」と、再三わびを入れた。涙ながらの謝罪に八郎左工門も哀れに思い、今後人畜に危害はもちろんのこと、一切水難のないよう守ることを警わせ、これを偏平石に記しわび証文として差し出させ許してやったという。八郎左工門はこれを城の東方の小高い丘に埋め、水難除けの祈願をした。 ところが、それから間もなくのこと。ある真夜中に異様な物昔が間こえてきた。村中のニワトリが一斉に鳴き叫ぴ、村は不吉な予感に包まれたが、異様な物音は長くは続かず、また元の静かな夜に戻った。城中では、夜討ちの敵と思い、八郎左工門自ら出陣の手配に及んだが敵の姿はいっこうに見えず。もしや、かっぱのわび証文に変事があったのではと調べさせたところ、わび証文は無事であったが、土は掘り返されひどいありさまであった。かっぱがわび証文を取り返そうと大群をなし押しかけたが、ニワトリの声に夜明けの時と思い込み、目的を果たさずに引き上げたのだった。八郎左工門はその後を案じ、わぴ証文を石棺に納めほこら地中深く埋めなおし、その上に祠を建て、永久に石棺のフタを開くべからずと定め、社名を不開神社とし、水難除けの神として祀ったという。この不開神社がいつの頃から赤津と変わったのかはさだかではないが、現在では社殿は大きく木造に立て替えられている。不開神社を祀って以来、釈迦堂川に水難の被害は見られず、かっぱのわび証文は今なお深く信じられている。

狐の嫁入

昔、惣吾郎内、八十内、竜生間の交通路は、亀石川(広戸川の上流)を渡る田んぼ道で、ゲンバチキという杉のこんもりとした中に小さな稲荷様があり、この近くを通るのであった。ここに色々と昔話が生まれていた。 ある夜、権さんが川を渡って稲荷様に近づくと、自分の歩いて行く道の前後両側を何かがつきまとっているようで全身ゾッと身ぶるいした。全変だと思ってタバコに火をつけ、買ってきた魚、油揚げ、卵の包にみをを首にかけ、帰り足を急いだ。この権さんの家の所までつきまっとっていたのは、狐だったという。 それからある日、結婚祝いに招かれての掃り夜道、風呂敷包みを首に、藁で作ったツトッコにお膳のご馳走や魚をつめ、これを肩にかけて都々逸を流し、ご機嫌よく川を渡るとビタリと歌声が止まった。 それもそのはず、そこには彼の心に秘めたいとしの彼女が、いとも美しい姿で迎えに来てくれていた。彼女に手を引かれて行った所は素晴らしいお宮の前で、そこは幕を張ったきれいな座敷に徳利や盃などがしつらえてあった。彼は持参のご馳走を全部開いて上機嫌でいると、美女達が次々にあらわれ、飲めや歌えと狐拳で大騒ぎ。すっかり有頂天となった。 やがて家にたどり着き気がつくと、なんとフンドシー本。翌朝、おぼろな記憶を呼びおこしながら、密かに女房とさがし歩いたところ、財布と煙草入れは稲荷様の祠の前にあり、ご馳走は何もなく狐の足跡だけが一面に残っていた。 こうした狐たちは、入梅の明ける初夏の雨雲たれこめたタ暮れもおそく、稲荷様の南方田んぽをへだてた向い山岸に、狐の嫁入りを見せたものだった。まず一番の提灯がつく、次に二番三番四番とボーボーと灯がついて、長い長い行列となる。これを見つけた者が大声で狐の嫁入りはじめたぞーと叫ぶと、みんな家の中から飛び出して見たそうだ。

おろか婿

昔むかし、大里深沢の村はずれの一軒家に、とても素晴らしい器量よしの婿がいた。したがって、嫁(女房)もまたすごい美人であった。ところがこの婿様、顔やすがたに似ず頭の中味が低く、誰からも「おろか婿」の名で呼ばれていた。 ある時、女房の実家の縁日によばれ、色々な品々御馳走を出されたが、その中でも「だんご」が一番で、ベロもへソもぬけるほどうまかった。 この婿様、この味が忘れられず、女房に作らせ、また食ってやろうと「だんご、だんご・・・」と口の中でくり返しながら、家路の帰りを急いだ。一軒家のために道は悪く、あいにく雨あがりであったので、路面に深い水たまりが出来ていた、婿様は、いつもの調子で「どつこいしょ」と飛びこした。そのはずみに「だんご」が「どつこいしょ」と変わってしまい、家に着くや「どっこいしょ」を作れと女房に言いつけた。言われた女房は何がなんだかさつぱりわけが分からず、一つ言い二つ言いで、つい二人は大口論となった。 たまたま外出先から帰宅した母親が、このさわぎの事情を知るや「おろかもの」と叱り、次の瞬間かたわらにあった太々とした「すりこぎ棒」で、婿様の脳天めがけてボーンと強く一撃を食わした。 婿様は痛い痛いと両手で頭をおさえ大苦しみ。しばらくたって、女房が婿様の頭を見て「アラッ、だんごのようなコブが大きく出来たワ」と言ったその途端、この婿様半泣きの大声で「そのだんごのことだ」と叫んだという。 この「おろか婿」の名前、また、住家などのことは何時どうなってしまったのか、今は誰にも分からない。

へっぴり三次

飯豊と高林のほぼ中程を「上高林」という。これは古い住居跡で、当時約二十戸の集落があったといわれ、百姓三次もまたこの集落の住人であった。 ところでこの三次は、愛称を「へっぴり三次」と呼ぽれ、これには、次のようないわれがあった。 慶長六年九月、会津若松城主蒲生秀行は、白河支城に家老職町左近をおき、城代として当地方一帯を治めさせていた。 白河城代家老は、代々一年に四回本城の若松城へ伺候することが恒例となっていた。 ある年の暮れ、白河城代家老、町左近は、少数の家来と夫役数人を従え、若松城主蒲生秀行への伺候を終え、カゴに揺られながら急ぎ帰城の途についた。 途中久来石(鏡石町)の村はずれにさしかかったとき、たまたま前方から供の者や夫役を伴なった名のある武将のカゴと見受けられる行列に出逢った。その時、カゴとカゴとがすれ違った、ほんの瞬間、先方の夫役の一人が「ブーツ」と一発放屈した。カゴの中にあった左近は怒ってしまい、あわや「無礼者め」と叱る寸前、当方の夫役である三次が間をおくことなく「ブップーツ」と、先方の数倍もある大音響のものを、つづけざまに力を入れて二発ぶっ放した。 日は暮れかかり城代家老、町左近は、矢吹本陣にカゴをとめ宿を取った。夫役の三次は、同輩らの溜り場に控えていたが、今日の御前での放屈の一件が気にかかり、あるいは重罪のため討首かと心配のあまり、何としても涙が流れおち、やり場がなかった。 この夜、三次は城代家老の前に呼び出された。三次はもはや御手討ちの覚悟はしてはいたものの、どうにもふるえが止まらなかった。家老は満面笑みをたたえながら、「夫役、三次とはその方か、面を上げい」ハ、ハイ、三次の返事は声にはならなかった。家老は更に声をやわらげ「近う近う」と声をかけ「今日、その方の働き、余はうれしいぞ。敵は一発、味方は二発、しかも大筒じや。よく余のかたきを討ってくれて、余は満足であるぞ、ほめてつかわす」手柄として家老愛用の短刀一ふりと家老自らの酒肴を下しおかれ、三次は感激のあまり平伏、うれし涙がとめどもなくこぼれおちた。 この話が伝わるや、上高林周辺は勿論のこと、三次の名声は一段と高まり「へっぴり三次」と、名誉ある愛称で呼ばれるようになったという。

男神山の大天狗

妙見山は、むかし男神山という。古老の話しによれば、天正年間小川の妙見岳より飛星があって、この山に落ちた。増見讃岐という者、これを見て山に登ったところ、小仏があった。よって妙見をここに安置した。その後増見讃岐は不動院と改号し、別当となり、以後一村の鎮守となった。慶長三年本堂を建立してから、 妙見山と呼ぶようになった。 大明神は何の神を祭ったのか、由来不詳の社があったので、これが山の名となった。しかし、別の名を女神山とも言っだ。里人のことばに、天正の頃この神、宇都宮に飛び移ったため、今は社跡だけが残っているという。(白河風土記参照) 昔、松本は貧しい山峡の村落であった。それと言うのも土地がやせ、何を作ってもろくに稔らず、収穫は年々減る一方で、よその土地の半分にも満たず、そこでこの土地に見切りをつけ、よそに移り住む者さえ続出するようになってきた。困り果てた里人達は思案のすえ、男神山に祈願をすることに一決。山峡にそそり立つ、男神山を仰いでは、来る日も来る日も祈願をつづけていた。月日が経ってある日突然、一天にわかにかきくもり、墨を流したような、恐ろしい空模様となった。底冷えのする風が吹いたかと思うと、どこからか、大きな天狗が男神山にあらわれ、対山の女神山にまたがり、体をふるわし、いきなり脱糞をはじめた。 里人運は唖然となり、ただ天狗のしぐさを、あれよあれよと見守るばかりであった。天狗はいずこともなく煙のように消えて行き、それはほんの一瞬の出来事でもあった。 以来、松本の田畑は豊かな農地と大きく変わり、したがつて収益も倍増し、他に見られぬ豊かな里になったという。