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鳳坂峠に降る雨は、村の自然を優しくつなぐ

四季折々にさまざまな彩りを見せる天栄村の自然。ふるさとに降る恵みの雨は、村のほぼ中央部にある分水嶺「鳳坂峠」を境に、西は日本海、東は太平洋へ山々に緑を潤しながら、すすみます。この急峻な鳳坂峠が天栄村の自然を大きく二分しています。

西部地区は、大白森山・小白森山・二岐山などの標高1,500m以上の急峻な山岳地帯が続き、二俣川・鶴沼川の渓谷、羽鳥湖周辺の高原など、変化に富んだ景観が特徴です。この地域の大半が大川羽鳥県立自然公園に指定され、村のシンボルである羽鳥湖を中心にさまざまな観光ポイントが広がってます。

東部地区は、釈迦堂川と竜田川の清冽な流れによって肥沃な耕地がひらけて農村地帯となっており、おだやかな気候の中、人と自然が豊かに共生しています。こうした二つの異なった魅力をもつ本村の自然は、次代へと引き継ぎたい貴重な財産。野生鳥獣の保護、リゾート地域などの美しい景観形成など、調和のとれた土地利用がこれからの課題です。

天栄村の歴史

近代・現代

明治維新で封建社会も終わりを告げ、文明開化、生活の近代化の波が東北地方、わたしたちの村にも押し寄せてきました。上松本地区では、産業史上とても重要な「売薬業」が明治前期から第二次世界大戦終結のころまで栄えました。「薄徳園」「松本ちのくすり」など原料やその製法などとても興味をそそる薬が近代医療の未成熟な時代に重宝したようです。児渡地区は宿場町だったところで、明治中頃から昭和のはじめまで「馬競り市」が行われ各地からきた仲買人の馬喰たちで大いに賑わい「三日東京」といわれ、夜毎宮尾登美子の世界が繰り広げられたのかもしれません。

近世 幕藩社会の中で生まれた宿場町

戦国の乱世を迎え、その最後の攻防戦とされる大里牛ヶ城の戦い。あの伊達政宗が一万人あまりの軍勢で攻め寄せても落城しなかった天下の名城は今でも四百年前を彷彿とさせます。江戸時代には、その大半を白河藩の支配を受けるなか、三大改革の寛政の改革を実行した松平定信が藩主のころ後藤地区ではまぼろしの陶磁器といわれ「後藤焼」が製作に励み、一方、窯跡の発掘調査で考古学からの解明がされようとしています。

中世 難政不落の名城といわれた牛ヶ城

世の中が貴族中心の時代から武士の時代へと変わり、村も地頭や守護大名の支配を受けるようになりました。そんな中で仏教の世界でも新しい教えが誕生するなか、仏教美術の分野では湯本地区の「馬頭観音座像」と安養寺地区の「法燈国師座像」がその代表です。どちらも鎌倉・室町時代の作といわれ、後者は日本に味噌、醤油の製法を伝えた徳の高いお坊さんです。赤ん坊の夜泣きが直るご利益もあり、参拝者が絶えません。

古代 岩瀬郡最大級の龍ヶ塚古墳

集落単位の共同生活から村や郡、国へと豪族そして、天皇中心の国づくりが行われます。白子地区には福島県指定重要文化財の「龍ヶ塚古墳」や奈良・平安時代の集落や役所の遺跡として、「舞台」「国造」「志古山」の各遺跡があり、中でも「志古山遺跡」から発見された「丈龍私印」は奈良・平安時代の古印としては、県内唯一、東北地方でも千年以上前の印として数点のうちのひとつであり、この時代に天栄村がかなり政治文化の中心であった証としてのすべき文化遺産といえます。

原始 廣戸川流域に米作文化の花ひらく

天栄村の東部を流れる釈迦堂川(通称・広戸川)や竜田川などに沿って人々の営みは遠く一万年前までさかのぼります。縄文時代の狩猟中心の生活を垣間見る「桑名邸遺跡は青森の「三内丸山遺跡」にも匹敵する県内を代表する集落跡です。

ふるさとの歴史が一目でわかるマルチスポット天栄村ふるさと文化伝承館

「天栄村ふるさと文化伝承館」は、村の文化と伝承を次世代へと受け継いでいくための学習の場をつくろうと平成10年に完成しました。館内は、伝統的なふるさとの文化を学ぶ「伝習室」と「展示室」に分けられています。展示室は、「原始・古代」「中世」「近世」「近代的」とテーマ別に分類され、村の歴史を知る貴重な資料とともに分かりやすく展示されています。他にも、昭和初期の農家の暮らしや伝統産業を紹介するコーナーなどもあり、村の文化の拠点として広く利用されています。