戊辰戦争と天栄村
会津軍は戦場を白河に設けるため、慶応四年閏四月二十日払暁、白河城(現小峰城)を急襲して白河城を占領し、迎撃の拠点としたが、五月一日に西軍の総攻撃に遭い、会津軍は敗北し、白河の向寺・桜町・登町に放火して、会津に引き揚げて行った。白河口で敗れた会津軍は、白河街道羽太を経て羽鳥に至り、会津へ引き揚げている。この方向での会津の守りは、①白河街道から羽鳥・湯本湯の上を経て会津攻撃に出るだろうとする説、②羽鳥の大平から黒澤・安藤峠・二幣地を経て、会津東山に通ずるとする説、③羽鳥の太平から更目木・馬入峠を経て福良に出するとする説、④白河又は須賀川から長沼を経て、勢至堂峠を通って会津を攻撃するだろうとする説があったという。いずれ羽鳥の大平は通過の拠点となるので、大平口の防御が重要であるとされていた。①~④の路線のうち、②、③は安藤峠、馬入峠があり、道も狭いので官軍の通過は無理であろう。あえて通過するとすれば、やや平坦な②であろうということから、安藤氏をしてこの筋の防御にあたらせることになった。④は街道も良く会津への最短距離でもあるので、官軍通過疑い無しとして、勢至堂の奥字岩崎という所に堤を造って水を蓄え、官軍通過持には堰を切って谷水を流して大洪水とする計画と、鹿ノ平という所では山を削って断崖を造り、その上に塹壕を築き、多くの石を蓄え、大筒二門を備え付けた。大筒は練習と称して時折轟音を轟かせたという。塹壕跡は今でも残っている。
一方、①の路線は道幅も広く、西郷の熊倉から田ノ沢を経て羽鳥に至る線と、白河から羽太を経て羽鳥に至る二線がある。いずれも太平が分岐点となることから、太平口の防備は厳重なものとした。会津軍は羽鳥・大平・大槻・田良尾・湯本の農民に鉄砲や刀を与えて、にわかづくりの会津兵として大平口の防備に当たらせたという。会津軍が白河での戦いに惨敗して、会津へ引き返そうとした東軍は、官軍の大平口通過は必至とみており、羽鳥・大平の全戸に対し、麻幹や萱を自家の軒下に重ねさせ、老若女どもは現羽鳥小学校裏山の萩ノ倉山に疎開させた。東軍の命令によって一斉に火が放たれ、二つの集落はまたたく間に紅蓮の火の海と化してしまった。同様にして湯本も全焼したが、二軒だけ焼け残ったという。民家を焼いたのは、官軍が通過の折、休み場や泊まり場になることを拒んでの西軍の策略であった。
しかしながら、西軍は①~④のいずれの道も通らなかった。のみならず、④が西軍の凱旋のための帰路をなったことは、まことに皮肉ともいえよう。それにしても、萩ノ倉山や湯本の前山に疎開して、先祖伝来の家屋や文化財が灰と化していく有り様をわが目で見ていた農民の心やいかにと思うだに心が痛む。